梅田美知子  2015.01


                                                                                                                       《絵を飾るように布を飾る》2015.01.13~01.22
《絵を飾るように布を飾る》2015.01.13~01.22

今回のゲストは京橋にあるアートスペース繭の経営者、梅田美知子さん。 お借りした機関誌《THE Neighbor ザ・ネイバー》(2003年)に連載された梅田さんの記事の中に「初めは耳にやさしく覚えてもらいやすい響きと思ってつけた《繭=虫が草を食べて糸をつくる、1文字で大きな自然の循環を表す》は由来の通りギャラリーを導いてくれた」と書かれてありました。また東京を豆乳のたっぷり入った巨大な器だとして、それぞれのギャラリーはそれぞれの個性や美意識の「にがり」を投げ入れ、柔らかな豆腐ギャラリーが出来上がるというたとえ話もユニーク。今回は年頭に25年ぶりとなる同じタイトルで展覧会を開催するということでお話をうかがいました。

ーギャラリーを始めるきっかけと俵勇作さんとの出会い

「絵を飾るように布を飾る」展は24年前に開催されたとお聞きしていますが、今回はなぜ同じタイトルで開催しようと思われたのですか?

ギャラリーを始めたのが24年くらいになるかな。今年で25年目にあたるのかしら。DMにも書いてあるのですが、当時「LEE」という雑誌の特集記事に掲載させていただいた展覧会でした。初心に戻ってという想いもありますね。当時の編集者の方もお見えになって感慨深かったです。

ギャラリーオープンの初回がこの展示だったのですか?

一番最初はね、私は絵と焼物しか知らなかったから、そういう店をやろうと思っていて。ギャラリーを始めようと思った直前に、今ちょうど練馬区立美術館で開催されていた《俵勇作展~水墨の波動~》(会期終了)の俵さんに大変お世話になってね。若松町に備後屋ってあるんですよ。諸国民芸の店なんだけど、その5階にギャラリー華というところがあって。そこの主が俵勇作さんだったんです。彼はもともと絵描きだったんだけど、アフリカのプリミティブアートに出会って自分の描いているものなんてこの人たちには及ばないと思って筆を折っちゃったの。それでプリミティブアートのディーラーをしてらしてね。ギャラリーを始める前にたまたま彼と出会って、すごいものがいっぱい並んでたんだけど、値段を聞いても気に入らないと返事もしてくれない感じの人だったらしい(笑)。だけど私を紹介してくれた方が俵さんにとても信頼されていて、いろいろなものを見せていただけた。そしてこの作品とあの作品を比べてみて、どれがアートなのか、単なるお土産品なのかを見極める目を教えてくれたんです。

俵勇作さんが教えてくださったんですか。

そうなの。その頃父親が亡くなって、少しばかりの相続があったんだけど手をつける気にもなれなかった。というのも私父親っこだったから。それが、あそこにもある(展示を指さされて)8mもあるアフリカのアプリケという作品をその場で買っちゃったのよ。

ーアフリカのアプリケとの出会い

それがきっかけになって。だって、初めてみたのに鳥肌たっちゃって、血が逆流するような感覚になったんです。後から聞いたら、マティスとかクレーとかピカソなどたくさんの作家が影響を受けたといわれているものだったらしい。アフリカとの出会いについては、※「マティスの秘密」展(後述)に行ったことも大きかったのよ。当時「あ、きっとこんな感覚はマティスも同じように衝撃的だったのでは~」なんて思ってね(笑)アフリカ狂いが始まったのね。その頃ギャラリーを始めたんです。

当時は美術界の経験もある共同経営者がいて、ギャラリーをやっていくには最初に作家の展示をしてじょじょにお客様に認知してもらうことだと言われたんだけど、なにせ直感型の私だから。だって半年くらいでつぶれちゃうかもしれないじゃないですか。「一番好きなので展覧会やりたい!」とか言っちゃって(笑)。で、初回はアフリカでやったの。来てくれるか来ないかはホント勝負みたいだったんだけど。俵さんのところで手に入れた布だけではなく仮面など様々なものがあったけど、全てもう手放したわね。最初の頃の家賃をそれが支えてくれました。

タイミングもよくて、展覧会のちょっと前に乃木坂アートホール開館1周年記念企画で※《マチスの秘密―ザイール・クバ族の染織展》(1992年)があったんです。キュレーターは古布や民族具などのコレクターでもあるメアリー・ハント・カーレンバーグ。そこでこの8mものアプリケを模様ごとに切り離し額装して展示されているのを見てはっとしたんです。私はアフリカの布として買ったけど、これは1枚1枚が抽象絵画なんだと気づかされて。それで最初の展覧会で額装したものなども加えたんです。そしたら大勢の方が来られて大当たりだったの。プリミティブアートって今求められているものなんだって実感したんです。自信をもてた。それから作家の企画展も始めているうちにアジアのものにも出会うようになりましたね。

図録の表紙はクバ族などの染織布やアプリケを背景にしたマチスの写真ですね。巻頭で水尾比呂志さんが「人間性の本然への回帰」と書かれています。

私にとって始まりはアフリカだった。人類の原初的なものはアフリカにある、世界中のDNAは全てアフリカ大陸にあると言われているでしょ。諸説あるけど当時は女性の大腿骨(骨盤?)が発見されたところで、それが人類最初のものだったとつまりグレートマザーだったのだろうとかね。アフリカ大陸から人類は時間をかけて各地域に派生していったということだから。私達だってモンゴロイドでしょ。アジアやアラスカ、中南米もみんなモンゴロイド。アフリカからの一つの系譜としてアジア、アラスカ、中南米、アンデスの古代裂なんかもそうだけど、みんな自然観が似ているところがある。これまで多様な作品を扱ってみて、それに関わる方々から話を聞いたりして理論的にはどうかわからないけど、実感することがたくさんあるの。ヨーロッパは自然を制圧する文化であり、モンゴロイド文化は自然と共存する文化でしょ。そのことが布やアートの歴史から見えてくるおもしろさがある。けっこうはまったのよね(笑)。

アジアへ

このギャラリーはそういうものが核にあるの。
100年以上も前にマティスはこのアプリケを見て触発されたのに、日本の教育ってこういう存在を教えないでしょ。技法とか主義とか分類ばかりで。アーティストたちがどこからインスパイアされたかとか知らないことばかり。だからこそやってみたいと思いました。収集はアフリカに始まり1990年中頃からアジアに移っていくんだけど、気候が温暖で湿度を感じる土地の赤は湿り気のある赤、情感のある赤につながっていくのを見て、自分はアジア人なんだなぁと共感していくわけですよ。自分の中のアジアについて知るようになりそれが中国少数民族衣裳の収集につながっていったんですね。幸運にも友人が北京大学で少数民族について勉強していて、彼らと中国古美術を一緒に探しに行ったりしましたね。たまたまなんだけど、見たことのない民族衣裳があって。それがとても綺麗で今でも覚えているけど、エメラルドグリーンと黒でぎっしり刺繍で埋め尽くされた帽子と上着とスカートと。脚絆も。

一揃いですか?

そう。値段もびっくりするくらい安いものだった。3万円くらいだったと思う。でも初めての買物ってなかなか手が出なくって。次に行った時にはいくつか購入できたんだけど、最初の1、2年はそんな感じだった。そのうちに突然大幅に値上がりして。欧米の美術館やディーラーがこぞって買いつけたんですね。手仕事の価値を知っている。商売している人はだいたい漢民族で、少数民族のことはあまり評価していないのに売れるとなったら急に値上げして。たまたま奥地まで出かけるディーラーとの出会いから、収集は続けることができたのは幸いでした。この間の日中友好会館美術館での《中国少数民族展》(2014年)の一部はそのコレクションなんです。

 

その時に少数民族のアイデンティティのひとつ、女性性についても考えたんです。

男性は狩りに行ったり移動して働くけど女性は結婚し家を守り、子を育て、家内にいる。

彼女たちはその土地の風土、空気感などを手仕事を通しての一番の表現者だと思うんです。しかもほとんどは祈りの形や受け継がれた家族の歴史だったりする。

子供を魔物から守る為におんぶ紐に刺繍をしたりとかね。

そういうものを手にした時に思いを馳せるわけ。旦那が一か月も猟から帰ってこない、まったく!とかどうしているだろう?とかやきもきしながら縫ったり刺したりしていたんじゃないかとか。

そんな話を会場でしたら、そばにいらした男性が「そんな思いがつまった装束だと、なんか怖いですね。」って笑ってらしたけど。だけどそんな女性の情念を写していると思うのよね。こうしてギャラリーは初めは「原初的な人類」、「アジア人の私」、「女性性」というものにテーマが移っていったんです。

ー無いなかでつくる美しさ
次に日本の藍に出会いました。でも時すでに遅しでコレクションはあきらめて
永松朝子さん、高見乾司さんたちが早くから集められていた日本の藍に関わらせてもらいました。文句なしに居心地がいい、洗いざらした藍とか。布が貴重だったからそれを繕ったり、刺子したり、裂織にするんだけど、なんでもいいからということではなかったと思うの。無いなかでもある種の美意識があった。それを見た時に、あぁ自分は日本人だなって。やっと日本に辿り着いたわけ(笑)。

旅ですね。

布は自分のアイデンティティを一番奥からたどっていくというか、わかんないけど、そんなツールだったんだなって思いますね。

一貫して布を通して各国を旅するように収集を続けたのですね。

自分は北京までは行ったけど、ギャラリーをしながらだからそうそう出かけられないでしょ。いろいろな国に行かれたんですねとよく言われるけどね。

ー現代の作家とプリミティブアート

 

思い返すとこのアフリカの布との出会いがなければ、その後の作家の企画展にしても選出の仕方が違うものになっていたかもしれないですね。

アートスペース繭を構築しているものは、強さとかシンプルさとかプリミティブな要素が含まれていることなどが基準になっているからです。そうは言っても現代の作家については、現代は文明は発達したかもしれないけど、人類としてのパワーは落ちてきているわけだから元来のプリミティブアートと比べるのは難しいけどね。

プリミティブアートの根源的なところは個人的な自我の表出ではないということ、家族とか集落とか部族とでもいうようなコミュニティの中で育ったものですよね。現代の作家のものは個人を表現するものであって、それとは別物だと思うけど。でも観念とか表層的なものだけで作られたものは、なんか面白くないんです。作家の年齢に関係なく自分のプリミティブ、1人の人のプリミティブと言ってもいいのかもしれないけど、そういうものを探ったり、たとえ若くてまだ行き着いていなくとも、その人が自覚しようと無自覚であろうとこちら側に迫ってくるものがあればいいんだと思う。器用にこれもできるあれもできるじゃなくて、その人自身がこれしかできないんだというものにみかけは稚拙に見えても、心打たれるのよ。
たとえばこばやしゆふさんは、彼女と出会った23,4年前と作風があまり変わっていないんです。共同経営していた頃、ゆうさんの企画展を何回かしているうちに、文筆家で編集者でもあった相棒(男性)は男性的観念でゆうさんに「次回はちがうゆうさんを見せてほしい」とお願いしたの。そしたらゆうさんが困って「私にはこれしかできません」と言われた。私にはとてもよくわかった。彼女は自然児だし自分の中にあるものしか作れない。彼女の本質はアフリカに近いと思っているんだけど。自分の中にあるもの、受け取ったものを生み出しているのであって、頭の中で次はこうしようなどと考えていない。それが彼女の良さで、彼女のファンが多いのもそこなんだと思う。

また極端なペアですね(笑)。

ま、結局そこが折り合わなくてね(笑)。7年後に意を決して独立したの。自分に蓋しちゃいけないって周囲も応援してくれて。やってみたら、なんだ、もっと早くやってみれば良かったって。

ーやるかやらないか迷った時には
スタートするって怖いでしょ。でも最終的に物事ってやるかやらないかって迷った時には、たぶん自分に縁のあることなんだと思うの。世の中に山ほどの選択肢がある中でどうしようって二者選択を迫られるわけで。プラスの方を選ぶということもいいのかなって。  それにやってダメだったらあきらめがつくじゃない。
うん、うん。
だけどやらないで、あの時やってたら絶対成功したとか思うのってどう?
あはは。
やらなかっただけで妄想しか残らない。だからやって討死したほうがましだもの。

2人して爆笑。けっこうあたって砕けろ派ですね。

30代の私はさんざん迷ってやらない方だったから

それは環境もあるんじゃないですか?子育てとか諸々。

 

ー幼少期、結婚 子育て

いや、それだけじゃなくて性格的に。もともと子どもの頃から体が弱かったのよ。だから消極的なところもあったし、母親がはっきりとした女性だったからトラウマみたいなものもあってね。我慢するんだけど、ある時それが満タンになると爆発するとか。母親がびっくりしちゃうわけ。昨日と同じシチュエーションなのに、いきなり爆発するから。

パワーが強かったんですね。

そうかもしれない。30代の終わり、子育てしていた頃のことで今でいうママ友同志のお付き合いの後帰宅して夜になると、梅田さんのお母さんとか奥さんとかそういう呼び名しかないのが哀しくてどうしようもなく涙がこぼれる時期があってね。たぶんマグマは強かったんだと思う。環境的に抑え込んでいたんだと。ま、それから徐々にね、いろいろなきっかけを通して変わっていったんだけど。

そのあたりは画家の高井佐和子さんと交流があった時期ですね。
(補足)画家高井佐和子さんは梅田さんと私の共通の友人で、高井さんが私に梅田さんを紹介してくださったいきさつがある。近年繭でも高井さんの個展が開催されるようになった。

そうそう。高井さんが「物事って全然自分とは無縁のことと思っていても、自分の夢を忘れなかったら、それはだんだん近づいてくるものだと思う。」と言ってくれてね。それは忘れられないですね。初めて作品を買ったのは彼女の絵だった。彼女が作品を手にする喜びを教えてくれたと思うし、それからこの道が始まったのよね。高井さんから最近になって聞いたんだけど、彼女は彼女で絵が描けないでいる時に私が購入したことがとても励みになって背中を押されたんだって。お互いに励ましあっていたなんて今まで知らなかった。
当時は自分を自己確認できていない部分もあって、辛かったけど。だんだんと人に認められて自己肯定ができるようになったというか。それから55歳の時にハタと自分は結構派手な人間かもしれないと気がついて(笑)。マネージャーのような役割ではなくてイニシャチブをとる人間なのかもなぁと。(現在それからすでに15年経過)

55歳でですか!(感嘆)じゃぁまだ私でも大丈夫?

大丈夫!(笑)

展覧会風景
展覧会風景

ー母娘の思い
いろいろ紆余曲折があったのも母とのトラウマがあったせいだと思うの。私が白と思っても母が黒といえば「そうだよね、黒だよね」と自分を抑えていた。ものすごいガキっぽいと思うけど、55歳でやっと!自分というものが中心にきたという感じ。いくつだっていいんだと思う。それで、す~っとスッキリしてしまったの。それからはしんどいこともしんどく思えなくなって、全て肯定的に受け入れられるようになったんです。

自分で選んだことは、しんどいこともなんでもないと。

そう、失敗ですら栄養に変えていこうという前向きな気持ちになれるしね。自己責任で納得がいくでしょ。腹くくっちゃったらね、ものすごく前が開けてきた(笑)。

境地かも。 このようなお話は、女性なら誰しも思い当たる節がありそうですね。

背守りのようなアップリケがかわいい
背守りのようなアップリケがかわいい

そうよ。そして私は幸せなことに、どんな時でも回りにいてくれた人が本気になって関わってくれたということですね。それにトラウマがあったからここまでたどり着くことができたと言える。それ以来、母についても女性としていろいろあったのだろうと察することができるようになったし、関係性も変わりましたね。余談だけど佐野洋子著「シズコさん」を読んでそうだなと思ったし。佐野さんも最後は寝たきりの母親に添い寝したりして関係が修復されていく。

それと同時に自分も反省するんだけど、親は子供の幸せを願うといってもそれは親の思う幸せであってね。子どもには子どもの考える幸せがあるということ。もし応援するとしたら子どもの思う幸せを親が理解できないとしても見守るというか。そして何かあれば手を差し伸べられたらと思う。
不思議だけど満たされた家庭だったら、私はちがっていたかもしれない。人生ひとつしか選べないけれど、私はこの仕事を通していろいろなことを学び、様々な方と出会って本当に良かったと思っているしね。最終的には母にとても感謝しているので今は幸せだと思っています。これまでの日常も仕事上でも苦い思いも全てが糧になっている。出会いも出来事においても何一つとして無くてよかったものはないですね。死ぬまでに±ゼロにしていけたらな。まぁこれから又何かあるかもしれないけどね(笑)。  この仕事を選んだのは必然だったと言ってもいい気がします。あとは人。とにかく人との出会いよね。

ーアートは人と人とをつなぐツール

アートって、たとえばお互いにある作品が好きだとするでしょ。それはお互いのバックグランドになにか価値観とか感覚とか似ているような点があったりすることがある。このギャラリーでは私が好きな作品の展示をしているから、それを好きなお客様が集まってこられる。この場で交流が始まり、友達ができる人って多い。それって出身地とか先祖からつながっている血とか、似たような感性とか潜在的に呼び合うものがあるのかもね。だからアートって理屈ぬきで人をつなぎあわせるツールだと思う。すごくね。

今回の展覧会で印象的なことはありましたか?

ふだんは吉田一郎さんの作品が好きでよく来てくださる方が今回ご主人と一緒にこられたの。ご主人がゆっくり楽しそうに作品を見てくださってるんですよ。以前は優しい人だったのに急に怒りっぽくて人が変わったようになって、このままでは駄目になるとお2人で話し合って早期退職されたとのこと。それからすっかり楽になって、今まで見向きもしなかったギャラリーなどで作品を見るのが面白くなったのだとか。アートって解放と自由を感じられるものなのかもしれないよね。

アートスペース繭 外観
アートスペース繭 外観

編集後記
しばしばギャラリーを回るが今日は何の展示かなぁと道沿いからガラス越しにのぞいてフラッと立ち寄れるところは少ない。歓談しながらゆっくり作品を鑑賞しているお客様の間から「いらっしゃい」と梅田さんの笑顔がのぞく。ひょっこりひょうたん島の片岡昌さんや画家の井上洋介さん、谷川晃一さんなどがまるでご近所さんのようにゆるりとされているのに出会ったこともある。「リラックスできる」と言うと「そういってもらえると嬉しい。本望よね。し~んとした自分の靴音だけが響くような無機質な空間はやるせないから、好き嫌い言いたいことが言えるギャラリーがいいなと思っている」のだそうだ。「リラックスして初めてものが見えると思うから、庶民派ギャラリーがいい。アートよろずやさんだね」それを目指してるからと屈託なく笑われて「ここは広場みたいなところ。そこにはアートがなくてはならないの」と続けた。ほとんど2年先まで企画でうまっていて、なかなか他の美術館やギャラリーに出かけられないと残念そうに言われる。周辺ビルのテナントが一斉に撤去していく昨今、この小さなギャラリーだけはいつまでも世代も業種も関係なく様々な人が集まる広場であってほしいと心から願っている。

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